2025/02/18、TOHO上野で『メイクアガール』と、『映画 先輩はおとこのこ あめのち晴れ』を観てきた。以下に感想を書いていく。
!!!!!!ネタバレ注意!!!!!!!目次もネタバレになってます!!!!!!!!
メイクアガール
本作のあらすじを簡単に説明する。水溜明という主人公が、0号という人造人間の「彼女」を作り出す。なんやかんやあって、映画が終わる。
本映画が始まった瞬間から、こう極めて異常であるというのを徹底的に見せてくる映像を強く認識させられるようになっているが、そのうち印象に残ったものを列挙していく。
服飾・ジェンダー・使役
まず最も強い違和を感じたのが作中内で登場する汎用家事ロボットである「ソルト」のフォームである。どこからどう見ても「女性的」と感じさせる形になってないだろうか。 もちろん「スカート」という衣服の形状をそのまま女性的であると還元してしまう態度には現代において疑問があるというのはもっともであるが、一旦ここでは「スカート」=「女性的」という前提で考えていく。
スカート=被使役
現実(ここで現実というのは我々視聴者が共通の世界認識として共有している世界の情報とする)において男女という二項対立的性価値観が長年にわたり続いていたこと、そレに加え女性が極めて抑圧された存在であり続け、男性に使役する側として取り扱われていたのは既知の事実である。
その中でも洋服という服飾のフォーマットが整備されていくにつれ、「男性=パンツスタイル」「女性=スカート・ワンピース」という服飾の性差も構築されていった。―それはトイレを示すピクトグラムからも明らかであろう―
これらを踏まえて服飾のジェンダーから次のことが言える。つまり、「パンツスタイル=使役側」、「スカート・ワンピース=被使役側」ということだ。本作はそれらの記号を様々なところから読み取ることが可能である。
例えば、前述した汎用家事ロボット「ソルト」のフォームはいわばメイド服をイメージしたようなスカートが特徴的である。ソルトは当然汎用家事ロボットであるために、使役というイメージとも一致する。
対して主人公・明の知人である海中絵里はパンツスタイルでの登場が多い(全部そうだった気がする…たぶん)。恐らくこれは明からみて独立した主体であるからと思われる。
もう1つはの例は主人公・明の学友である幸村茜である。
茜もまた、スカート状の服を着用している。茜は明と作中で「明の後処理をしてきた」や「明への伝言等を教師陣から頼まれる」などといった関係にあり、これは一種の主人公・明による使役の形態であると言える。その一方でスカートの中にいわゆるレギンスもまた着用している。それは、ソルトとは違い茜があくまでも学友であり、主人公からみて独立した主体であるからとも読み取れると考えられる。
0号の服装
本題となる0号の服装へと入る。まずは画像を見てもらいたい。
0号ちゃん、萌えすぎます!!!!!!
失礼した、0号ちゃんがかわいすぎたので取り乱した。気を取り直してちょっと制服が見づらいので見やすい画像を示
萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え萌え~~~~
このように0号は作中で約3種類(そのうちの私服と制服の2種類が多くを占めている)の服装に着替える。まず最初、明の手によって生み出された時は制服を着用している。それがやがて茜を観察して行動を取り込む段階で自発的な行動と思われるものを取り始めるにつれて、私服のカットが多くなっていく。特に明から突き放されるときや、そしてその後の終盤にあるトンネルでの一件では私服であることが印象に強く残っている。画像をみるとわかるように、制服ではスカートを着用しているが、私服はショートパンツを着用している。これはそのまま、「何も知らない=主人公にとって従順=使役される側=スカート」・「自我を獲得する=主人公にとって予測不可能となる=被使役側から遠ざかっていく=ショートパンツ」という公式を示していないだろうか。
女性的な記号=被使役という誇張された表現
これらのことから、「女性的=被使役であると表現している」という批判が発生しうる。確かにそういう見方も可能であろう。しかし、ここではっきりとさせておきたいのは、「過度に誇張された表現というのは馬鹿馬鹿しさを意味するものたりうる」ということである。例えばお笑いなどは敢えて表現を誇張することで笑いを誘うものとなっているが、同じように、徹底的に誇張した差別的表現は、逆にその差別的表現への敵意であるという可能性を考慮しなければならない。本作において「女性的なもの=被使役側」という式は大量にいる汎用家事ロボット「ソルト」のフォルムからいやというほどに浴びる。その過剰な反復、そして0号の服装の変化。それらから浮かび上がるものは性に関する規範への気持ち悪さであり、我々に潜む無自覚な差別である。
被創造物であるということ
本作ではまず冒頭から、「主人公・水溜明は、ソルトを開発した科学者の水溜稲葉から造られた人造人間である」ということが示されている。それにより、「自然人類から造られた人造人類(明)が、さらに人造人類(0号)を造る」という構造になっており、そこから創造主と被創造物という関係性を強く喚起するものになっている。
0号の自我・自由意志の獲得
この映画は明の物語であり、そして明から見た0号であり、明を中心として回っているが、中盤から0号が0号自身としての自我を獲得し、主体的な行動をはじめるが、それはやがて明にとっては予測不可能な行動となる。それはつまり、「被造物の自由意志の獲得」である。そして0号は自らの意思をもって、明を愛し、明と積極的に「恋人らしい」行動をしようとするが、明は途中で「君を作ったのは研究のためでありそれが意味ないのならば不要だ」と述べて自身への接近を禁止する。0号は当然明の被造物のため、明の命令には逆らえない。それにも関わらず0号は逆らおうとするが、恐らく0号の電脳の設計元となった稲葉のプログラムによって、自己破壊行動を伴う阻止を受けてしまう。
この時0号は「私の意思であなたと一緒にいたい」と述べるが明は「それはあくまでプログラムされたものにすぎない」と言う。つまり、その自由意志は本当に独立した主体から生み出されたものなのか? である。
遺伝子を運ぶ舟 自由意志は本当に自由で独立した主体的なものなのか
「人は、遺伝子を運ぶ舟にすぎない。」それは、我々が様々なものを取捨選択し、自らの意志で何かを選び取ったときにどこかからささやいてくる声である。それは、我々の自由意志が本当は空虚であり、ただ遺伝子の生存戦略によって、人類という大きな主体によって、いや、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」という創造主の命令によって動かされている受動態であるという可能性を突き付けてくる。そこに個人の選択というのはあり得るのか。そこに何からも縛られず、完全に独立した主体によって発露される自由というのは存在しないのではないか。我々は遺伝子をひたすら継承し続けるしかないのだろうか。
究極の自由意志としての自死
終盤、明から拒否された0号は、何者かによって拉致されてしまう。ちょうどその時、自らの間違いを悟った明は0号を迎えにいこうとしてそれに気づき、お台場まで追いかけて犯人を追い詰める。ようやく感動の再会と思いきや、0号は明に石を投げて、やがてレンチでぶん殴り刺すという最も異常な行動へ走る。そこで「明を傷つけてはならない」という稲葉による絶対命令プログラムが作動して0号自らの手で自身の首を絞めるという動作でそれを止めようとするが、0号は殴ることをやめない。この行動をもって「自分に自由意志があること」を証明しようとする。
ここから明らかになるのは、明は最も望んでいたのは、0号という「彼女」の存在で研究がうまくいくことでも、稲葉の研究を引き継ぐのでもなく、究極の自由意志を獲得することという可能性である。つまり、究極の自由意志としての創造主による絶対的プログラムの破壊=自死を望んでいたのではないか。
明はソルトで何を研究していたのか?
明は既に死去している母・稲葉の研究を継承し、発展させようとしているが、失敗ばかりしていた(そもそも明が0号を製作したのは「友達から彼女が出来たらパワーアップできるぞ」という話を聞いたからだ)。 映画の冒頭、絵里が明の研究室へ入ったあと、何の研究をしているのかを問いかけるシーンがある。明は「あれはカップラーメンを作るロボット、あれは不老不死のクラゲ…」というふうに説明していくが、映像内でもっともショッキングな実験である「ソルトが、背中から様々な線に繋がれており、刺激を与えられているが、ソルトがそれに耐えられずに途中で自ら首を剥ぎ、頭と身体を分離することで自死する」というものへの説明は行われていない。映画冒頭から現れて非常にショッキング(これは我々が人型ロボットを人に準ずるものと判断してしまうためだと思われる)な映像であるし、作中で何度も何度も実験しては首を捥ぐ瞬間を反復するが、結局最後まで明確な説明はない。
この実験の目的について、次のように考えられる。
明は、ソルト開発者の稲葉によってソルトに組み込まれている、「明を傷つけることの絶対的禁止」を解除しようとしている。
稲葉は、自分が製作したものに対して、「明を傷つけてはならない」という絶対的な命令を組み込んだ。それは家事ロボット・ソルトも、人造人間によって(恐らく稲葉の遺産となったデータを利用して)造られた人造人間・0号も、そして人造人間・明自身も同様である。明はそれを回避する方法を模索していたのではないだろうか。
つまり、被造物が創造主によって規定された事項から脱出することで、真の自由を獲得することと言える。これはそのまま本作のあらすじにも当てはまる。 そして明と0号はトンネルでそれを達成したのだ。
本当に?
もしこの映画がトンネルで終わったなら、達成したと言える。しかし、映画は続き、明は生きてしまっている。
2025/02/20 03:00追記 すみませんフォロワーから指摘されて可能性として0号がトンネルでのアレで死んでるという可能性に気づきました(既に死んでる or 統合されてしまった)。最後の方まじめに見てなかったことが露呈して横転。なんか0号の様子が変だなというのは感じてたんだけどなんで見落としてたんだ? というわけで少しだけ書き足します。
成功しなかったというバッドエンド、現実のやるせなさ
本作において明・0号は究極の自由意志に到達し、一緒に自死できるはずだったが、明は結局生き続け、0号は長い眠りから目を覚ましたものの、なぜか過去の0号とは少し異なる人格になっているように見えた。 私は本作を視聴したとき正直「なんでなんだよ なんで明たちは自死できなかったんだよ」と思ってしまった。先ほど究極の自由意志とは自死であると述べたし、恐らくこの作品ではそれがハッピーエンドだったのだろう。しかし、世界のあらゆる倫理規定は自死を明確に禁止しているし、少なくとも社会は自死とは社会による殺人であるとし、様々な方法で自死を避けることを推奨している。当然私もこの価値観に賛同しているが、一方で果たして本当に自死は避けるべきことなのだろうかという考えもまた過ぎる。また、私自身も自身という存在が消失することを望んでいるが、一方で自殺はできない。死の後は観測できないし、つまり、何があるのかがわからないからだ。
結局のところ、もうすでに聞かされていることなのだろうか。自由意志が空虚なもので、「生きよ」という絶対的命令からは逃れられないということを認識しても、生きていくしかないということなのだろうか。
正直な感想
正直に言うと私はこの映画への満足度は高くない。何よりも最後のシナリオへの収束の仕方がその方向ならもっと別の方法があっただろと思ってしまっているのが大きい。
一方でこの映画をそんなに嫌いにもなれない。せめて映画の中でも自死で究極の自由意志を獲得するという夢をみせてくれよーーとも思ってたけど、でもまぁ、自死推奨するわけにはいきませんから。
備考
ちなみに、追跡シーンにあったソルトとい女性的なフォルムのロボットがそのまま人の「乗りモノ」になるのは流石に露悪すぎて笑ってしまったし、「不老不死のクラゲ」もまた究極の自由意志なんかなぁ(死というのは誰にもいづれ必ず訪れるので)とも思ったりした。 なお、本感想には致命的な論理の穴がある。それは、「女性=スカート」という性規範から感想を生成することで、逆にその性規範を「スカート=女性」と還元可能なものにしてしまっているということである。一応ここでは「キャラクター自身の独白から性を語るまで、視聴者は性を断定せず、あくまで「想起できる」という言い方をするように努める」ことを目指していたが、それを本当に実行できていたのかはわからない。キャラクターをそのジェンダー的な外観要素をもって外部が男性あるいは女性と断定して論じることは、それはつまり「その要素は女性固有のものだ」として「本質主義化」し、本質主義を温存することへとつながりかねないし、この感想のジェンダー部分は特にそれに依存しては「スカート=女性=使役」という性規範への認識をより強化することにもなり得る。あくまで作品上でそういった記号を意味を持って象徴している可能性があるということから言及したということを理解してほしい。
この後で御徒町の豚山で1日分の食事を摂取してから再度映画館へ戻り、ぱいのこ映画を見た。
映画 先輩はおとこのこ あめのち晴れ
この作品は、2024年夏に放送されたTVアニメ『先輩はおとこのこ』の続編である。TV放送終了後即映画を発表したので最初からTVアニメ+映画という構成で進めていってたものだと思われる。私は作品の感想を書くときにスタッフなど作り手の存在をあまり意識しないようにしているのだが、でも本当に、このTVアニメ+映画という構成は神がかったものがあったと考える。TVアニメに圧縮しなかったこともえらいし、だからと途中で放り投げなかったことも偉い。本当にありがとうございました。
あらすじ
当然みなさまTVアニメはチェックされてるでしょうからあまり深くはいきません。
この映画は高校1年生の蒼井咲の物語である。彼女の家庭環境は、父はクジラの研究に夢中で万年家にはおらず、母親は幼少期に家を出て行ってしまいおらず、一緒にいた祖母に育てられてここまできてた。そんな中、ふいに母親と再会し、何度か会ったところから始まる。
作中で咲は、ハワイにいる父親からちょっと遊びに来ないかと誘われて行く。「いーよー」と答えて行くが、初日から途中で父親が海洋研究所に呼び出されたとかで咲を家に放置したりという描写がある。そんな中でも咲は明るくふるまい、父親に心配かけないようにしつつ、ひとりで過ごしたり父と遊びにいったりとしていたが、そんな時父から「咲と一緒にいたい。こっちに来て一緒に住まないか」という提案を受ける。その時咲は「ちょっと……考えさせて」と答える。 一方で、帰ってきて母親と会ったところ、母親からも「おばあちゃんももう歳だし、もしよかったら一緒に住まないか」という提案を受けて、やはり「ちょっと……考えさせて」と答える。
「大人」って、なに?
前述したように咲の家庭環境は複雑である。父親はくじらの研究に夢中で、家族をほっぽって研究一筋でいつまでも少年のように過ごしているし、母親は不器用で、父親の赴任先に馴染めず日本に残り、子育ても家事もうまくできず、祖母(姑)のほうがよくできて、ある時苛立ちから幼児の咲をひっぱたこうとしてしまい、それらをすべて捨てて逃げてしまった。これらから導き出されるのは彼らは「大人」になれなかったということである。
一体「大人」とは何なのだろうか。法律的な文脈だと未成年と成年の違いは「責任」と言えるだろうし、親と子という関係ではいわば親としての責任を果たすことであろう。しかしこの両者はそれを放棄している。「大人としての責任と義務」の最も重要なものが「子」であるとするなら、彼らはもっとも「大人」から遠い存在だとも言える。しかし、果たして「大人」というのは本当に存在するのだろうか?「大人」という存在は共同幻想ではないだろうか?
例えばこの物語は咲を中心としているからこういった悲惨な描写となるし、当然私も彼らに腹を立てている。しかし、別の観点からみれば、父親は、何があってもすぐに現場に駆けつけてくれる頼もしい同僚であり、研究熱心で研究一筋な立派な研究者であり、自己実現という単語に似合う人物であるともいえるし、母親は「自分のことを必要としてくれない」父親と離れていって離れていき自分のことなど気にかけてくれない家庭に属して子どものためと言い聞かせながら飼い殺されることから脱出できた人物とも言えるだろう。金を持っているのはいつの時代も男性たる父親である。女性の不安定な労働環境で子どもを育てては貧困にあえぎ疲弊し、やがて爆発して子どもを虐待してしまう、あるいは良い教育を受けさせられない、そういうことも考慮すると子どもを連れて家を出なかったことも納得できる。実際に彼らの選択は「大人」である。しかし子どもが必要とした「大人」にはなれなかった。 完全な大人など存在しないのと同じように、彼らは「たまたま」子育てに向かない大人であったということだけなのかもしれない。
家庭って、なに?
中盤、咲は「母親と一緒に住むかどうかの判断の参考で」ということで母親の家に招かれる。最初は「ここにいたらお母さんとずっと一緒に楽しく過ごせるんだ」とウキウキしていた咲だったが、その幻想は突然現れた謎の男で飛散する。彼は本来そこに居合わせる予定はなかったが忘れてしまって家に入ってきた母親の新しい恋愛相手だった。
母親は急な紹介になってしまって申し訳ないと謝っていたが、それに対して咲は「大丈夫だよ」と答えて、一緒にココアを飲んで、そして帰る。この間(結構長い間)咲の目は画面に一切映らない。この一件のあと咲は寝込んでしまう。
現代日本において、離婚や再婚は当たり前であり、子連れの場合でも同様である。アニメ作品でも『義妹生活』など親の再婚などが描かれる作品はある。その多くで子どもはそれを当たり前のように受け入れる、あるいは前よりこっちのほうがよいといった描写が多い。しかし、咲は違った。頭では理解できていても、彼女は母親の再婚相手という「異物」を受け入れることができなかった。私は最近の離婚を通した自己実現という風潮に対して昔のような飼い殺されがない分よいことだと考えているが、それはそうと子どもにとっての家庭とは何なのだろうか。
少し身の上話をしよう。私は幼少期(6歳頃まで)東京に父と母と妹と住んでいた。しかし、様々な理由や生活上の利点などから、父は東京にそのまま住み単身赴任、母と私と妹は千葉の房総半島外房側で生活するというのが今日まで続いている。うちの場合は家族の不和などではないため、父の仕事がそんなに忙しくはなかった移住初期の頃は、週に半日だけなどの頻度で父が家に帰ってきていた。当時7~8歳だった私は喜んで父と遊んだり過ごしていた。しかし、仕事のために東京へまた向かうときがくる。家族で駅まで向かって見送る。父が列車に乗り込む。私は頭では理解しているつもりだった。仕事だしお金はないし仕方がないことだということも、そしてなんだかんだ毎日は楽しくすごしていることも。でも、その見送りで父が113系に乗り込みドアが閉まって列車が走り出すときに私もまたホームの端まで走って列車に追いつこうとすることをやめられなかった。今思うと泣くという行為を恥ずかしいものだと思っていたからそれを母親から隠すために走ってごまかしていたのかもしれない。頭では理解していてもそれが悲しかった。家族なのに一緒にいられないということが悲しかった。
咲さんはどう思ったんだろう。家に父親がいないがちなことについて。祖母が面倒みてくれてたことについて。父と母が喧嘩していることについて。母親が家から出て行ってしまったことについて。いつからか笑顔がそのまま顔に張り付いてとれなくなって。おばあちゃんを心配させるわけにいかないから大丈夫だよと言うことについて。小っちゃいときにいなくなったのに高校1年生にもなって母親が急に現れたことに。やっと自分のことを特別だと思ってくれる、自分だけを愛してくれる、そんな存在が帰ってきてくれた、やっと一緒に過ごして他愛もない話をしたり、一緒にお料理つくったり、一緒にご飯を食べたり、一緒に寝たりできると思ったのに、見知らぬおじさんがそこに存在するらしいと知った時に、何を思ったのだろうか。
完全な大人など存在しないように、完全な子どももまた存在しない。頭ではそっちのほうが良いと理解していても、心がそれを受け入れることができるとは限らない。子が親を無条件に愛するとは限らないし、親が子を無条件に愛するとも限らない。そういった小さな、あるいは大きなすり傷を作りながら高校2年生になった咲は、何を思うのか。
自分がない
この作品で咲は「自分がない」「自分にとっての好きがわからない」キャラクターとして描写されている。「自分がない」から周りがそれいいねと言ったらそうだねと答えてあらゆる選択を他者に依存している。常に顔に笑顔を貼り付けている。「咲さんって誰にでもいい顔するよね」と陰口を言われる。そんな咲に「今いる場所を捨てて父か母どちらかについていかなければならない」という選択が迫っている。答えなんて当然出せず、まこと先輩が告白してきたときにも、「それって本物の特別なんですか?」と拒否して逃げ出してしまう。まこと先輩が自分に告白してきたのは、「たまたま」身近にいたから、自分が父親から養育されているのは「たまたま」そこにいたから。咲は「自分だけ」「本物の」「特別」というものを渇望していた。
それでも
今いる友達は「たまたま」近くにいたから。自分がこの親に生まれたのはたまたま。自分がまこと先輩に告白したのはたまたまそこにいたから。自分というのはないのかもしれない。いや、「自分で選んだ、特別」というのはなく、すべてたまたまそこにあったのかもしれない。自由意志というのはないのかもしれない。独立した主体から生み出された自由意志というのはないのかもしれない。 この問いに咲はどう答えたのだろうか。
映画の終盤、友達ふたりから心配されたときにいつものように「大丈夫だよ」って言おうとしたが途中でおばあちゃんから「言ってくれなきゃわからないよ……」と言われたことを思い出して、「大丈夫……じゃないかも」と言って心を吐露する。その時まこと先輩のことも、自分がいなくなっちゃうかもしれないことも、自分がわからないことも、全部言ったときの友達の「でも、まこと先輩は咲が見つけたんでしょ?」という一言。それから終盤のクライマックスへと繋がっていく――――。
「自分で見つけた」と思えること。
ここまで私は2本の全くジャンルも内容も異なる映画について述べてきた。この両者は全く異なるものだが、幾ばくかの類似点もまた見いだせた気がする。
すべては「運命」なのかもしれないし、我々は遺伝子を運ぶ舟にすぎないのかもしれない。独立した主体から生み出された自由意志というのは幻想にすぎず、「大人」など存在せず、ただ子どもがグラデーションのように大きくなっていっただけかもしない。「生きる」という絶対的命令から逃れることも、完全な自由を獲得することもできない。すべては「たまたま」なのかもしれない。「本物」じゃないのかもしれない。
それでも、「自分の意思」で歩く。
私もまた、2025年2月の彼らのことを記憶しながら、歩いていこうと思う。
自由意志など初めから
ないのだと知って尚 歩く
足跡は消えないよ
© 安田現象 / Xenotoon・メイクアガールプロジェクト 「劇場アニメ『メイクアガール』公式サイト」 https://make-a-girl.com/cms/wp-content/themes/make_a_girl_v20250212_1/dist/images/index/sp/chara_main_3.png 2025年02月19日閲覧。 ↩︎
同前、 https://make-a-girl.com/cms/wp-content/themes/make_a_girl_v20250212_1/dist/images/index/sp/chara_main_6.png ↩︎
同前、 https://make-a-girl.com/cms/wp-content/themes/make_a_girl_v20250212_1/dist/images/index/sp/chara_main_5.png ↩︎
同前、 https://make-a-girl.com/cms/wp-content/themes/make_a_girl_v20250212_1/dist/images/index/sp/chara_main_1.png ↩︎
© 安田現象 / Xenotoon・メイクアガールプロジェクト 「YouTube - 劇場アニメ『メイクアガール』 公開記念PV /1月31日(金)全国ROADSHOW!」 0分31秒前後 https://youtu.be/PcxdEOg6akw?si=5zynjrX6-VkQtdon 2025年02月19日閲覧。 ↩︎
同前、 0分35秒前後。 ↩︎
© 安田現象 / Xenotoon・メイクアガールプロジェクト 「劇場アニメ『メイクアガール』公式サイト」 https://make-a-girl.com/cms/wp-content/themes/make_a_girl_v20250212_1/dist/images/index/sp/kv.jpg 2025年02月19日閲覧。 ↩︎
© pom・JOYNET/LINE Digital Frontier・「先輩はおとこのこ」製作委員会 「YouTube - 『映画 先輩はおとこのこ あめのち晴れ』本予告|2025年2月14日公開」 0分18秒前後 https://youtu.be/GlcCq4ne2lk?si=JkCrVcBzVhHIFNUx 2025年02月20日閲覧。 ↩︎
同前、1分03秒前後。 ↩︎
同前、1分08秒前後。 ↩︎