2026夏クールに放送されたオリジナルアニメ『さよならララ』を観た。いたく素晴らしいオリアニであったと思ったので、珍しくTVアニメの感想を走り書きしてみようと思う。

導入

魔女グレイスのキャプ
『さよならララ』第1話 11:22より

私たちは二度生まれる。一度目は存在するために、二度目は生きるために。 1

ララは人魚で、海のお城のプリンセス。ララは幼い頃から好奇心旺盛で、色んなことを吸収している。これは、そんなララが、地上の砂を部屋に落としていたことが発覚した後に牢屋に入れられ、その際に一緒にいた魔女に言われた台詞である。

この台詞はその後、魔女が意図しているいないに関わらず、まるで予言のように成就することとなる。ララは王子を殺めるのではなく、泡となって消える。しかしその後、よみがえり、滋賀県大津市に降り立つ。

存在とは一体なんだろうか。生きるとはいったいなんだろうか。私たちという生命にとって、存在することと生きることは同義に思える。死を経ると私の意識はそこで消え失せるし、生きるということは、そこに人が存在しているということだからである。だとするならば、このララの物語は、そこにどのような差異を見出し、何を伝えようとしたのだろうか。

自己犠牲のその先――『さよならララ』の発生

魔女グレイス(ララのおば)の人生は11話で開示されている。グレイスは1度人間の世界へと向かいそこにいた人と恋をしたが、人魚だとばれた後、その人を殺めてしまう。たくさんの人に命を追われ槍で刺されそうになるグレイスだが、ララの母リグモアがそれをかばい、代わりに刺されては死んでしまう。つまり、グレイスの生は、ララの母の自己犠牲によって拾われていると言える。

「自己犠牲」というキーワードから強く想起されるのは、作中でも繰り返し強調されている十字架、すなわちキリスト教であろう。キリスト教の教義である「イエスが十字架にはりつけになり、人類の罪をすべて贖った」という「アガペーの愛」は、イエスによる自己犠牲である。だとするならば、「本当の愛」とは自己犠牲の愛なのではないだろうかという可能性が想起される。しかしよく考えてみると、ララはすでに一度死んでいるのだ。

1話にてララは、王子を殺めるのではなく、自分が泡となって消えることを選択する。つまり、ララはここですでに、自身の母親が行った自己犠牲と同様のことを行っている。生命にとって終わりとは、死である。自己犠牲という尊い愛は、必然的にその達成をもって、主体をそこで完結させてしまう。すなわち、物語はここで「おわり」を打ち、一冊の本になる、はずだった。

しかし、ララはその後によみがえり、滋賀県大津市に二本の足で降り立つ。ここから『さよならララ』の物語は始まる。自己犠牲を経たララはその先でなにを続けようとしているのだろうか。


作中においてララは、大津市に住む大津茉里に拾われる。茉里の家は祖母が牧師をやっている家庭であり、ララはそこでおっかなびっくり暮らしながら徐々に人間社会に馴染んでいく。金魚になった魔女からは「城の仲間の光のために、本当の愛を探せ」という命令を受けてそれを実行しつつ、バイトをしたり、学校に乱入してみたり、色んなことをする。

原作の『人魚姫』によると、人魚は、人間から本当に深く愛してもらって愛を誓うと、人間になれるそうだ。そのときに、人間の魂というものを分けてもらって取り込む必要があるらしい。ここから、ララは「本当の愛」なるものを探して、それを自分のものにする必要があるようだというのがわかる。すなわち、ララは「本当の愛」というものを探して、相手の「光」を自分の中に捕食しなければならないという物語の目的が見えてくる。琵琶湖の空中に浮かぶララの心は、作中、形を変えつつ登場するが、その度にたくさんの牙であったり、ナイフであったりと、獲物を捕食するかのように非常に攻撃的である。

捕食と言えば、ララはその誕生の瞬間から捕食をしている。ララが貝殻の中から生まれたシーンで、ララは魚を口に咥えて首を切断しているし、幼少期はなんでも口に入れて咀嚼しようとしているように思える。こうした「食べる」という行為は作中で何回も繰り返される。ララの心が具象化した謎のモノリスはその鋭い刃で対象を貫こうとするし、最終話でララは茉里の「光」を取り込むかどうかの選択をする。そのような、「本当の愛」を求めてルカに対して暴走したり、茉里を振り回していた、ララの捕食シーンが、徹底的に入れ替わるのが最終話である。

「人魚」と「人間」の対比

旧約と新約

一旦ここで「本当の愛」と「光」について整理してみる。

「光」とは、人魚の世界においては、その城を存続させるための重要なキーワードであるように思える。そして「光」は魔女曰く「本当の愛」を見つけなければ発生しないという。

一方で、人間の世界からみると、「光」とは、その人のもつ魂的な何か、あるいは心のように思える。それもまた「本当の愛」を通じなければアクセスできないという前提が人魚の世界から持ち込まれている。

人間の世界と人魚の世界では様々な対比がある。11話にて「人魚は光によって生き、人は言葉によって生きる」的な台詞、掟と愛といった対比がある。こうした様々なモティーフを拾い上げていくと、人魚の世界が旧約的社会、人間の世界が新約的社会ではないかという可能性が見えてくる。

一般的にキリスト教の用いる聖書はイエス以前を「旧約聖書」、イエス以後を「新約聖書」として、それらを一つの「聖書」として用いている。「旧い約束」、すなわち神から与えられた「十戒」という律法によって生きること、そしてイエス以後の、「あなたの罪は赦され、救われた」という「新しい約束」の愛で生きること。この違いを高校の世界史等を通して勉強したことがあるだろう。特に愛についての話は使徒パウロが記した「第一コリント13章」に多く書かれているし、イエスご自身も「愛」を最重要視していた。

そして新約で重要なのは、「イエスが十字架にはりつけになったことで、全人類の罪を代わりに背負い、その結果として、全人類の罪が赦され、それを信じることによって救われた」という部分である。

旧約では、罪の贖いを得るためには、動物を神に捧げてとりなしの祈りをしてもらい、その動物をほふり、燃やすことで罪の赦しを得ていた。それが、「罪なき子羊」と呼ばれるイエスによって、過去も未来もすべての罪が贖われたとするのがキリスト教の教義である。

こうしたことが、何かしらの連想を生み出さないだろうか。掟が強調される人魚の世界、あまり掟が強調されることのない(あるいは自然と行われている)人間の世界。

同時に、次のような連想もまた可能である。それは、人魚の世界が「家父長制的社会」であるということ、そして人間の世界が「自由恋愛的社会」であることである。

家父長制と自由恋愛

人魚の世界で、光は「女」がもたらすものである。そしてそれをもって人魚の城は照らされる。ここにおいて「光」は一種の母体的な神秘性を帯びたものと解釈可能である。あけすけに言えば、そのイエを存続させるための人的資本を生産し維持する機構としての「女」である。

一方で、人間の世界には「言葉」がある。人間社会は言葉を通じて発展し、様々な規範を打ち破ってきた。男女平等、家父長制の打倒。未だ道半ばであるが、少なくとも西洋化した現代日本では、婚姻制度に限って言えば、イエ制度よりも自由恋愛が主流のように思えるし、自由であるように見える。

途絶えてしまった人魚の城を昔のようにあまねく照らすためには、人間の世界で「本当の愛」を通じ「光」を探さなければならない。つまり恋愛をすべきだ。ララはそれを信じてルカと接近していった。しかしどうやら「本当の愛」とは恋愛のことではないらしい。最終話ではっきりするが、「光」を手に入れるためには、茉里を殺してその光を捕食する必要があるのである。

首からさげられたクロスネックレスのキャプ
『さよならララ』第11話 21:53より

こうした様々な対比は一定の読み解きとしての説得力があるように思える。人魚社会=家父長制的・旧約的、人間社会=自由恋愛的・新約的という対比がある中で、人間界の象徴となっているのが、茉里のクロスネックレス、十字架である。

崩壊する前提

最終話で、ララに会いに行った茉里は、「私たちは、誰かを愛するために生まれてきたんちゃうん?」と問いかける。しかしその直後、ララの心の魚が茉里のクロスネックレスに牙を向けて切断し、剣となり、茉里は死んだような状態になったあと消えて光のようなものになってしまう。茉里の光を持ちながら考えを巡らせていたララは、今度は自身の心の魚に、自分自身が飲み込まれてしまう。

ここにおいて、非常に鮮やかな転回が行われている。それは、「捕食」と「愛」に関するものである。

「愛」と「掟」は同じである

ここまで、私は人魚と人間の違いについて様々な面で対比させてきた。しかし、茉里の「人は誰かを愛するために生まれてきた」という言葉を発した後、茉里がララの心に刺し貫かれたシーンで、その前提が崩壊している。なぜならば、そもそも茉里のこの台詞は、人魚の家父長的な営みを存続させうるロマンティック・ラヴ・イデオロギー的なものにほかならないからである。

ここで一旦聖書を立ち返ってみよう。イエスは「愛」を非常に重要視していた。一方でイエスはご自身が律法を破棄するために来たのではないと明言している。むしろ律法を強化するものとも言う。こうしたことから、律法とは愛の具体例について命じたものであり、愛はそれらを命じられずとも(殺してはならないとか偽証してはならないとか盗んではならないとか)自然と行うことのできるものという捉え方をする。すなわち、「愛」というのは「掟」を内包するものなのだ。

同じように、茉里の「人は誰かを愛するために生まれた」という言葉は、自己実現・自由であるかのようにみえて、その実、「誰かを愛する」という規範性を帯びている。これは、「光をもたらすために生きる」という人魚の世界での規範と同型なのである。すなわち、人間と人魚は対立しているのではない。ララの姉リサが「人間と人魚は同じ海からやってきた」という発言のように、これらはまったく同じ形のものであるのだ。

家父長制を脱した自由恋愛(茉里の言う愛は、家族愛や友人愛を含むものだが、一旦ここでは自由恋愛だけにしておく)は、実際には家父長制を脱出できていない。なぜならば、家父長制そのものが、人的資本生産のひとつの在り方であり、そして自由恋愛もまたひとつの人的資本生産の形であるからである。そしてそれは社会の存続という大きな目的を持ったものとして駆動する。自由恋愛市場下では、核家族という基盤をもとに社会を構築してケア労働と再生産を行い、家父長制下では大家族・民族という基盤をもとに社会を構築してケア労働と再生産を行うものであるからだ。そしてそれは大きな意味での「愛」でも同様である。家族愛や友人愛といった人間関係から、その人間関係ゆえに社会は成り立ち、取引が行われて、社会が存続するからである。

自己犠牲の愛の否定

ララは、茉里と再会したとき、私とあなたは違うと言い、近づくなと警告しつつ、「本当の愛」にまつわる「さだめ」を壊すために自害しようとする。茉里の発言のあと、クロスネックレスを魚が飲み込む。

前述したように、人間社会とは「私たちは誰かを愛するために生まれた」という規範で成り立っているが、ここにおいてクロスネックレス(十字架)はその大きな象徴となっている。11話で、ララの母リグモアとグレイス、ララと王子の関係を通じて2度も描かれていたように、愛、あるいは究極の愛とは、自己犠牲を伴う愛であるというメッセージが読み取れる。そしてそれはイエスが十字架にはりつけになった愛と同様である。しかし、ララの心の魚という欲望は、この十字架に噛みつき、これを破壊する。ここにおいて「自己犠牲の愛」の否定が発生している。先に述べたように、ララは既に自己犠牲の愛を通過している。このことから、このシーンは、「では、自己犠牲の愛のその先には何があるのか?」を問うものとして機能しているのではないだろうか。

このシーンを通じて、人魚と人間のさだめと愛をめぐる二項対立はその虚構性を暴かれて崩壊し、自己犠牲の愛という理想論もまた粉々になった。そうした結果として茉里は魚に貫かれて仮死状態となり、茉里の光が周囲を漂い、ララはずっと欲しかったこの光を捕食するのか否かの選択を迫られる。

生きること=捕食すること?

捕食をするララ0歳
『さよならララ』第1話 01:02より

食べることは、三大欲求の一つとされる。「○○が欲しい」というものには、目的(○○)があり、それを自分が持つ、取り込むというように解釈される。「パンが食べたい」は、「パン」という対象を、自己に取り込み咀嚼したいという欲求であり、つまり、欲求というのには、その矢印が向かう先があることを前提としている。ナイフはそれが貫く先を持つし、欲望は目的に向かい、これを捕食する。

ララは生まれた時から「捕食」をしている。生きること、すなわち自己を完全な状態に保つことには、食べることが不可欠である。食べるという行為は、他者の痛みを伴う。他者の命を頂くこと、他者の光を自己に取り込むこと。食べなければ死んでしまう。自己の完全性は、他者の光を奪うことで保つことができるのである。

茉里が倒れたシーンで、ララは茉里の光を手にしている。ずっと欲しかったこれを、もしララが捕食すれば、人魚の世界は光を取り戻すだろう。周囲の声がララに「本当に欲しかったものは何か」と問いかける。

すなわち、生きるためには、泡になって消えないためには、このいま手に持つ光を奪って食べなければならない。そうしないとお父様は死ぬし、人魚は滅びてしまう。周囲は「お前の本当の、底からの欲求とは何か」と問いかける。それは、「その欲求を満たすべき」だというものを含意している。つまり、欲求の矢印の先を奪って取り込み、自分のものにするということである。しかし、ララは「うるさい!」と言い、それを、つまり茉里を消してしまう未来を拒絶する。その瞬間、ララの心の魚が肥大化し、ララ自身と光を飲み込んでしまう。

生きることとは、捕食することである。もし仮に、この捕食を拒否した場合、食べなかった場合、欲求の目的を取り込まなかった場合、自己の完全性の存続を拒否した場合、本当にララは、私たちは死んでしまうのだろうか。

捕食の反転「咀嚼される」ということ

ララが捕食することを拒否した結果、ララ自身が捕食されてしまう。牙が非常にたくさん生えた魚の中で、ララは茉里の光をみつけて、そこへ向かおうとするが、魚の牙によって刺されて、咀嚼されてしまう。ここで、これまで捕食し、咀嚼する側であったララが、逆に捕食され、咀嚼されるという逆転が発生している。

「食べる」ということは他者の光を簒奪し、自己という、独立して存在する「個体/固体」を存続させ、補強する行為である。「食べられる」側からみると、それは自己の主体の否定であり、崩壊であり、死である。つまり「咀嚼される」とは、自己という、独立して存在する完全な「個体」が「固体」ではなくなり、傷つけられ、はっきりとした境界が崩壊し、液体化して流動するプロセスである。

ララは捕食され、咀嚼される。その牙に刺されるプロセスにおいてララは「い゛ったい、いたい、いたい、いたい、いたい!」と繰り返し、ついには動けなくなってしまい「蘇らなければよかった」と言う。しかしその直後、「この世界にいたい」「本当の愛なんかいらない」「あなたがいる世界にいたい」と言い、牙から脱出した後、魚が爆発する。いったいここで何が起きているのだろうか。

咀嚼の途上における「いたい」という叫び

捕食されるララのひれ
『さよならララ』第12話 14:22より

捕食することを拒否した先にあったのは、牙によって捕食され、咀嚼される過程である。ララが捕食を拒否し、ララ自身が咀嚼される側になったとき、つまり、完全で、独立して存在する個体としての主体の維持を放棄したとき、その主体は崩壊する、つまり咀嚼される。「いたい」と叫ぶララだが、皮肉にも「痛み」は「生き」ていなければ感じることはできない。逆説的に痛みを感じるということは、その個体が損壊されながらもまだ生きているということである。ララはやがて茉里に近づくことをやめそうになる。

しかし、ララは前進を再開し、「この世界にいたい」と言う。ここにおいて、「いたい」という言葉の読み替えが発生している。「いたい」という言葉は、「痛み」だけを意味するのではない。「居たい」「生たい」という意味もまた内包する。またそれは、茉里に近づくことを諦めて死を考えた時に、新たな牙の突き刺しがなくなる、つまり新たな痛みが発生しなくなる、つまり諦めれば、死にゆけばこれ以上痛い思いをしなくてもよくなるという可能性とも表裏一体ではないだろうか。ララが前進しようとする瞬間、つまり、固体が液体化し、流動化していく途上で、ララは「痛い/居たい/生たい」と叫んでいるのである。

咀嚼の途上における「本当の愛」という目的論の破棄

魚の内臓の中で「わたし、本当の愛なんか、いらない!」と言うララ。ここにおいて、これまでの物語で主題となっており、目的であった「本当の愛」への欲望という、目的そのものが破棄される。

「欲望」をめぐる描写として、琵琶湖に浮かぶモノリスとしてのララの心(牙を持った魚・ナイフ)を思い出してほしい。牙は、何かを捕らえて捕食するための器官である。ナイフとは、刺し貫く先を待つものである。こうしたことから、欲望とは、上記のとおりその矢印の先が存在する。その先を壊し、捕食することでその欲望は充足する。しかし、ララは自身が咀嚼されるその途上で、この矢印の先を否定する。すなわち、欲望というものが持つ、他者の損壊性を否定し、同時に自己の完全性を破棄するのである。

1話の初登場と、現代のよみがえり後のシーン。ここからわかるように、ララの「生」は、ずっと「捕食」をするシーンから、つまり魚の頭を口に含み、切断するシーンから始まっていた。「本当の愛」というものを「捕食」するために貪欲にルカに恋愛することを迫ったり、ララの「欲望」の執着はこれまで何度も描かれてきた。しかし、ララが、それらの「欲望すること」を「うるさい」と一蹴したとき、ララは始めて「捕食される」側になった。それによってララは傷つけられ、完全性を喪失し、同時に欲望の目的論を破棄した。しかし、死ぬのは、消えるのは嫌だ。本当の愛なんかいらない。しかし「明日も、あなたがいる世界にいたい」。1度立ち止まったララが、それでも、と咀嚼の途上で手を伸ばすのは、いったいどういうことなのだろうか。欲望を取り戻したことなのだろうか。それとも、新たな形なのだろうか。

「欲望」から、「行為」へ

「わたし、本当の愛なんか、いらない!明日も、明日も、あなたがいる世界に、いたい!」という一文をもう1度よく見てみよう。文章の前半で行われているのは前述したように、目的論の破棄である。だとするならば、「明日もあなたがいる世界にいたい」とはどういうことなのか。

普段私たちは文章を読むときに主語を大切にする。「明日もあなたがいる世界にいたい」という文章において、重要なのは、「あなた-が-いる-世界」であり、それを装飾するものとして「明日-も」があり、その「あなた~世界」を目的として、そこに「いた-い」となる。しかし、捕食するララが捕食されたように、これを逆転してみよう。つまり重要なのは「明日-も」「いた‐い」であり、「あなた‐が‐いる‐世界」ではない。いやもちろん「あなたが~世界」も重要であるが、論点はそこではなく、「明日-も~いた-い」の部分である。

この「いた-い」は、「居たい」を意味すると思われるが、同時にそこには「生たい」と「痛い」が同居している。死ではなく、生を選ぶということである。そしてその生は、静止し、独立して存在する存在としての生ではなく、「明日-も~いたい」、つまり、現在も進行する状態であり、かつ、方向性としての意志そのものを意味するのだ。

つまり、ここにおいて「欲望/欲求」の意味が変容する。「欲望」は、その向かう先が含意されるという目的論であるが、そうではなく、つまりそうした対象を貫いて取り込む「先」を持つものなのではなく、「行為性」、つまり向かうという行為そのもの、現在進行形の運動であり流動であることである。すなわち、「欲望」そのものが変容している。

こうした、目的論を破棄して発生した、「進行する、している」という状態のことを「行為」と呼ぶ。英語で書くならば現在進行形(-ing)形であり、beingではなく、becomingである。つまり、存在するという固定的な点の状態、独立し、境界線が確定されたモノなのではなく、なること、変化すること、絶えず変わりゆくプロセス、流動であること、途上であることなのだ。

「捕食する」ではなく、手を伸ばす、ということ

手を伸ばすララ
『さよならララ』第12話 15:33より

こうした変容は、「捕食」にもまた変容をもたらす。捕食とは、捕食する主体という個体と、捕食される側という個体を想定し、される側を貫き、捕食する主体側に取り込み、その客体の固体性を崩壊させると共に自らに取り込み、自己という固体-個体の完成状態(明確な境界線)を存続させる、生きるという行為であった。しかし、「行為」がその目的論を破棄した今、「捕食」ではない「生」の可能性が立ち現れる。

ララは、捕食されつつも、茉里の光に対して手を伸ばす。重要なのは「手を伸ばす」という部分である。なぜならば、手を伸ばすという状態は、自身に取り込む状態でも、相手が崩壊する状態でもなく、ただ向かい続けるというエネルギーだからである。

ここで一旦「本当の愛」「自己犠牲の愛」をめぐる議論を思い出してほしい。光を奪う、奪わないは、自己と他者どちらを優先するかであり、その先にある自己犠牲とは、他者の光を救うために自己の光を手放すというものである。つまり、そこにおいて「個体」と「個体」の交換性、取引性、物理法則的な対価性がある。つまり「捕食」というものが個体と個体における所有・奪取の関係性であると同じように、ララが選択を迫られている「本当の愛」をめぐる状況下とは、「個体」と「個体」における契約・代償を交わす取引でしかない。

しかし、魚の腹の中で咀嚼されたララはいわば「個体=固体」ではない状態である。咀嚼とは、固体の境界線を破壊し、どろどろにする状態だからだ。これは、ララの主体がbeing、つまり存在するという、独立し、境界線が確定された完全な状態ではなく、becoming、不完全で、傷がつき、牙に刺し貫かれながら、つまり痛い状態でありながら、生たい状態であることを意味する。そうした結果、「個体」対「個体」という、捕食や取引といった論理は崩壊する。

こうした状態下で「手を伸ばす」ということは、これまでの「主体が客体を取り込む」ものではない。それは、捕食されて傷つくその途上で、他者に対して手を伸ばしている、現在進行形の状態なのである。さらに言うならば、そもそも魚の腹の中で茉里の光とララは確固たる別の固体なのではない。それは境界が不確定な、主体と客体の間もまた不確定な状態なのである。つまり、「他者を愛する」のではなく、「咀嚼され、流動化するその途上のただ中で、手を伸ばすという行為とその方向性」なのだ。

これは新たなコミュニケーションの可能性である。これまでの、「他者」とどう等価交換し、あるいは捕食するか、であったコミュニケーションではなく、自己が自己でなくなり痛みを伴い流動化する過程そのものの中で「手を伸ばす」こと。個体を捕食するのではなく、境界が曖昧化した中で「向かう」という運動性、行為性が続いているということ、それ自体が意味を持つのである。そしてそれは、「生」にまつわる論理もまた変容させる。

いたい=居たい=生たい=痛い

ララの足
『さよならララ』第12話 16:14より

ララは何度も「捕食」してきた。生きるために。しかし、生きるために本当に捕食は必要なのだろうか。つまり、他者の光を奪い取り込むことで自己という存在の独自性と境界線を保ち、それを完璧化することが必要なのだろうか。

先ほど私はララの叫びをもって「いたい=居たい=生たい=痛い」という言葉遊びをしていた。もし「捕食する」ことが生きることであるなら、この言葉遊びは矛盾しているはずだ。なぜなら食べることは痛いことではないからである。

こうした、痛みを伴わない捕食は、実は「生きる」ことそのものを目的としていない。それは、すでに述べたように、「自己という存在の独自性と境界線を保ち、それを完璧化する」こと、つまり「存在すること(being)」なのである。すなわち、捕食とは、「存在」への固執である。

一方でいま、ララは魚に「捕食」されている。それは痛みを伴うものであるが、前述したように「痛い」という状態は「生きて」いなければ発生しないはずである。

つまり、ララが発した「いたい」という叫びは、捕食する側が発することのできるものではない。むしろそれは咀嚼される側、崩壊しつつある側でなければ発せられない。つまり「生きる」こととは「痛い」ことであり、そしてそれは流動化すること、becoming 変化していくことである。換言すれば、「生きる」とは、存在という固体状態ではなく、その境界が確定しておらず、流動し、行為している状態、現在進行形で痛みを伴いながら変容していくことそのものなのである。

ララが目的論を否定し、「本当の愛」なるものが保持するその本質主義を破棄し、「あなたがいる世界にいたい」と叫ぶとき、ララの尾ひれは非常に生々しく変容していく。二本の脚という骨肉が生成され、変化していく。「いたい」とは、まさにこの変化していくプロセスそのものなのである。魚の腹の中で曖昧化した境界によって、「どの愛か」「誰の光か」という問い、等価交換性のある問いはもはや成立しない。自己犠牲の愛はその内部で存続させてきた個体と個体の取引性を失い、消えてしまう。

もしこの物語が、「ララが自己犠牲をして茉里が生き返った」や、「ララが光を返還することで茉里が生き返った」なら、それは等価交換の論理への回帰である。しかし、この物語では、ララが光を茉里の身体に返したようには見えない。むしろ実際に描かれているのは、ララが強く輝く光に対して手を伸ばし、それを抱きかかえようとする様子である。その抱きかかえようとする行為の途上で、光がそのまま茉里という姿に変容する。そこには、対価も、取引性も、捕食性も無いように見える。そこにあるのは、「向かう」という行為、そして変容するという出来事だけがある。それは、生成し、変化する途上そのものである。それらの行為の途上で、ララの欲望のナイフ、魚、牙は破裂し、消え去ってしまう。

爆発する様子
『さよならララ』第12話 16:33より

「歩いていく」ということ

走っていく列車
『さよならララ』第12話 23:44より

うん。でも、この傷が私なの。だから、これからも、この足で、歩いていく 2

半年後、ララは瀬田駅から列車に乗り、滋賀県大津市を去る。その時、足が傷んでいるということが開示される。上記は茉里はまだ痛むかと尋ねたときの返答であり、このアニメにおける最後の台詞である。その後、列車が走っていく。

私は、この台詞こそ、このアニメのすべてではないかと考える。この台詞において、「私」という主体の定義は根本的に変容している。「私」とは、他者を咀嚼し取り込むことで境界を確定させ完全な個体-固体である「私」なのではない。「私」とは、個体が咀嚼され、流動化して、傷つけられていくその過程、尾ひれが割れ、生々しく二本の脚へと変化し生成されていくその過程、そして残された傷。傷とは、本来欠けたものを意味する。しかし、その傷そのもの、その不完全性、「いたい」と叫び、生成し、変化していったその痕跡こそが、「私」なのである。

だからこそ、これからも。この傷のある足で、歩いていく。「歩く」ではない。「歩いている」でもない。「歩いていく」なのである。それは、進行形であると同時に、意志である。それは状態の変化であり、行為性であり、その途上である。

それは、「生き-て-いく」ということである。どこかから脱出することでも、どこかに安住することでも、どこかへ向かうことでもない。列車は走っていく。

これまで『さよならララ』では青画面に「つづく」の文字があり、OPアニメーションとEDアニメーションがあった。この最終回ではOPEDどちらもないし、「つづく」の文字もない。「おわり」の文字もない。列車は走っていく。

私たちは二度生きる。一度目は存在するために。二度目は生きるために。

『さよならララ』は、痛みとともに、痛みとして生き、生き‐て‐いく。列車は目的地へ向かうのではない。生きるとは目的地へ向かうのではない。

列車は走っ-て-いく。

私たちは、生き-て-いく





  1. 『さよならララ』第1話 11分25秒より。ルソーの言葉だけど原典まで探るの面倒だから孫引きで…… ↩︎

  2. 『さよならララ』第12話 22分53秒より。 ↩︎