2026年1月に公開されたNetflix映画『超かぐや姫!』を2月2日に見た。2月上旬は院試とか色々あり、感想が書けなかったので、今書くことにした。
 最初はちゃんと考えて書くつもりでいたのだが、そうしていると絶対に弊はブログなんて書けないことがわかったので、書かないブログより書くブログ理論で、雑な感想文を投げておく。


ネタバレしかないよ!




















導入

 メンダコは、海の生き物で、地上から遠く、深い海に住んでいる。メンダコはゆっくりとした動きをし、あくまでイメージとしてふわふわとしている感覚があり、そして当然「人外」である。
 このメンダコは、本作においてヤチヨのモティーフとして使われている。ヤチヨはメンダコを抱え、彩葉のSNSアイコンはメンダコである。
alt text
alt text
 一般的に(?)、メンダコ、海の生物としてのタコは、よくエイリアンのイメージとして用いられることが多い。例えばヨルシカ「火星人」のMV では、顔がタコになっている謎の生物がでてくる。かぐや=ヤチヨは、月人であり、それはつまりエイリアン、宇宙人とも解されることから、ここにおいて「月人→エイリアン→メンダコ」という導出は十分可能であると思われる。
 「エイリアン」は、宇宙人という意味のほかに、よそ者という名詞や、異質で相容れないという形容詞としても用いられる。数日で成長し、髪色を変えれるかぐやは当然にホモ・サピエンスとは異質で相容れない生態を有しており、「人外」である。
 メンダコは極めて高圧で光の届かない深海に住み、エイリアンは放射線に晒され暗黒の宇宙にいる。この両者はどちらも人間にとっては生存不可能な場所であり、仮にそこに「人間」が住んでいるとしても、それは人間ではなく「人外」である。
 かぐやは、花火大会の時に、次のように語る。

うん。でも、こっちに来てわかった。みんな抑えてもいるんだよね、自分の気持ち。多分、もっと大事な物のために1

 人間とは、「正しい人生」という柱を中心として、見えない鎖で繋がれ、そしてその柱をグルグルとしながらその柱に少しでも近づくことができるようにというものを求められながら生きている。その鎖は、どんなに引っ張っても、外そうと足掻いても、決して外れることはない。その鎖から逃れることはできない。ただ、その「正しい人生」という柱から少しだけでも距離を置くことはできる。しかし、そこから距離を置こうとしたとたんにあなたは「人間ではない」、つまり「人外」になる。だとするならば、「人外」である私たちはどのような生存戦略をとることができるのだろうか。この決して逃れられない「正しい人生」という痛みから距離を取りつつ、どう生きていくことが可能なのだろうか。その問いに対するひとつの可能性の提示が、かぐやと彩葉の物語である。



エイリアンの身体と時間

 電柱から生まれ、ライバーとして1位になり、ヤチヨとコラボライブをした後、逃れられない運命の鎖によって月に帰ったかぐやは、彩葉の歌声で地球に行くことにしたが、失敗して8000年前の地球に落ちてしまう。
alt text
 そしてかぐやは8000年という時間を、FUSHIの身体を媒体として生きてきた。正確にいうなれば、思念体としてのかぐやが、FUSHIという物質的身体を間借りして自らの身体の代替として地上で人間と関わってきた。そしてインターネットの発明後、かぐやは「ヤチヨ」というAIライバー兼仮想空間「ツクヨミ」の管理者となる。
 通常、「人間」は、精子と卵子の結びつきと、「女性」の子宮内での身の形成と出産を経て、地上に誕生する。さらに、先進国の近代的な「人間」はその誕生の瞬間から「人間」になるように義務教育をはじめとする様々な育成によって矯正され、高校・大学・就職活動といった様々な試験を経て分類される。「成人」になった「人間」は、その身体を資本主義経済において「有用」なものであることを求められ、「生産」を強制される。そして「人間」は、「男性」と「女性」で恋愛して結婚し「家族」という共同体の構成を推奨され、そしてそうした異性愛的基盤のもとその共同体は、精子と卵子が出会う性行為によって次世代の「人間」を「生産」することを求められる。このように、人は「生産」と「再生産」という円環の内部で、「人間」を定義づけられる。それはクロノス的な時間であり、生である。
 しかし、かぐやは異なる。「人間」はゲーミング電柱からは生まれないし、数日で高校生程度に成長することもないし、月に帰ることも、8000年も生きることもない。エイリアンで「人外」のかぐや=ヤチヨは、人とは異なる、時間性を生きている。それは「生産」外の時間である。

人から外れた生を生きた、傍観者としてのヤチヨ

 ヤチヨは、8000年という時間を生きている間に、何かを生産することも、地球に対して大きな影響力を及ぼすこともない。それは、映画の後半にある、ヤチヨの生きた時間の回想からもわかる。
 ヤチヨは、彩葉に自分の生について2日間の間おしゃべりをしたのちにスリープし、その後彩葉はFUSHIに頼んでヤチヨが語ろうとしなかった部分について知ろうとした。ヤチヨの生を追体験したそこには、ヤチヨがケラケラと語った楽しいおしゃべりとは異なり、戦争や略奪、𠮷原の花魁や、空襲後の街で花を売る少女なども出てくる。かぐやは彼らのために涙を流したくても流せず、彼らを助けたくても助けられず、ただ8000年の間それを見送り続けることしかできなかった。
 「生産」とはネガティブなものではない。誰かを助けることも「生産」であり、ポジティブである。しかし、「生産」の外部であるかぐや=ヤチヨは一切の「生産」ができない。数少ない人とFUSHIとしての身体を通してお喋りをすることができても、彼らの運命を変えることはできなかった。ヤチヨは「傍観者」なのである。
alt text
 何もできない「傍観者」は、現代の天皇制そのものである。政治的主体としての権利を剝奪された天皇は、どんなことが起きてもそれを傍観し続けることしかできない。天皇が象徴であるということは、それが搾取される客体としての側面を浮き上がらせる。かぐやは、本作という枠組みでそのキャラクター性を強制され、8000年という時間傍観者として立ち現された、かわいそうな客体としての可能性を提示する。しかし、ここではその「傍観性」を、人間社会から外れた、排除された客体というネガティブではなく、「人外」をポジティブに、「クィアな主体」として読み解くことが可能である。

クィアな存在としてのかぐや‐ヤチヨ

 クィアとは「奇妙な」を意味する形容詞であるが、日本語で表現するならば「この変態オカマクソキモホモ野郎」というニュアンスの、同性愛者を差別する言葉としても使用されてきた。しかし、それをセクシュアルマイノリティ当事者らが奪取してむしろ自らを肯定的に言い表す名詞として転回させたという歴史がある。現在の定義は人によって様々であるが、藤高の「ジェンダー規範や異性愛規範などを批判的に問い直し、多様なセクシュアル・マイノリティの連帯を志向する言葉」2というものなどがある。重要なのは、「普通」を問い直すというものであろう。  かぐや=ヤチヨは「クィアな主体」として立ち現れる。それは人間社会の尺度での「始まりと終わり」という時間ではなく、人間にとって考えられない、曖昧で永遠のような、毛玉のようにもつれた時間である。かぐや=ヤチヨは、「生産」の円環から外れた「傍観者」という表裏一体の生を生きている。「生産」するわけではないその生は、「失敗」の生かもしれない。すくなくともそのように見える。しかし、それは人間社会から見た時の「失敗」でしかない。むしろそれは逆に窮屈で抑圧的な「人間社会」からの逸脱できる可能性の提示なのだ。
 それは時間だけではない。かぐや=ヤチヨは、思念体であり、ゲーミング電柱から生まれた身体であり、ウミウシの身体である。そして何よりもヤチヨはAIライバーであり、インターネットの身体そのものである。それは物質と仮想の境界を侵犯する身体であり、母なる身体という子宮からの出産を経た身体ではない身体であり、生物と機械の境界を攪乱する、クロノス時間を持たない身体である。  さらに、かぐや=ヤチヨは、SF的な状態にある。映画の前半、かぐやとヤチヨは同一人物であるにもかかわらず、同じ時間・居場所で生きている。この時、「かぐや」という個体と、「ヤチヨ」という個体があるように見える。しかし、かぐやはヤチヨであり、ヤチヨはかぐやである。かぐやがヤチヨに影響を受けてライバーになった経緯を考慮すると、もし仮にどちらかが欠けてしまうと、それはどちらも消失してしまう。この複雑で絡み合った時間‐身体性は、人でありえない「人外」の時間‐身体性である。
 このように、かぐや‐ヤチヨという存在は、強烈なほどに非「人間的」、非「自然的」である。そしてそれは「人外」であることである。それはメンダコのように、「人間」からみると、圧力が高くて生存不可能で苦しく暗い「居場所」に生きる強烈に「エイリアン」であるのだ。



揺れ動く彩葉

「人間」の代表としての母

 本作の主人公である彩葉は、「人間」である。彩葉は極めて優秀で、あらゆる学校の評価で満点、バイトでも大活躍と極めて優秀な「人間」である。そんな彩葉は、自身の母親と深く対立し、学費から家賃までを自分でやりくりしている苦学生として生きている。母親は極めて優秀で、自他問わず厳しく、彩葉を徹底的に「教育」しており、彩葉はそれに反発して家を出た。
 彩葉の母は強烈に「完璧」な「人間」である。母は素晴らしい、かっこいい主体であり、子の教育に極めて熱心で、理想の高い、人間社会において極めて優秀な、すなわち、「人間」として最高の教育、「人間」として最高の恋愛、「人間」として最高の結婚、近代の先進国の「人間」として最高の「子」の生産者であり、成功した人間存在である。彩葉を本来ならば海外の大学に進学させようとする、ピアノのコンクールが銀賞でも褒めることがない、といったところから、この完全無欠さが描かれている。
 彩葉にとって「母」は、認められたい相手であり、憧れの相手でもある。しかし同時に反発し、「自立」しようとしている。「母」はまさに家父長的、「人間」的な成功そのものであると同時に、「普通」の、「生産」と「再生産」からなる時間の生であり、「正しい人生」の柱そのものである。「母」は、自身のような、あるいは自身よりより完璧な「人間」として彩葉を「生産」するため、熱心に「教育」する。
alt text
 そういった過度な「教育」から彩葉は逃げ出してきたように見える。しかし、実際には東京でも彩葉は「完璧」である。どんな科目でも評価10。バイトは優秀。彩葉は「母」という柱の鎖からの脱出を図っているが、それから逃れられていない。そしてそれ故に極めて疲弊している。抗うことは精神的にも経済的にも困難を伴う。なぜならば、この社会は「従順」であることで、楽に生きれるように、そしてその「従順」の先にある「成長」を「幸せ」であると定義しているからである。それに抗おうとする生は必然的に痛みであり、苦しみである。その鎖をいくら引っ張っても外れることはないし、外れすぎると「人外」として奈落に落とされる。こうした引き裂かれるような状況下で、彩葉は疲弊していた。

「エイリアン」と出会った彩葉

 そんな時、彩葉はゲーミング電柱から生まれたかぐやと出会った。かぐやは強烈に「人間」である母とは180度異なり、強烈に「エイリアン」であった。その出会いは、彩葉に大きな変化を与えた。「母」という柱ではない、「人外」という柱の可能性と触れることで、別の輪があるのではないかという可能性を提起させた。しかし、かぐやは消えてしまう。いつもの日常に戻ろうとした彩葉だったが、ヤチヨの秘密を知る。



システムを「ハック」する生

「人間」であることからは逃れられない のか?

   ヤチヨの秘密を知った後、彩葉は、かぐやの義体を作成するため、東大に進学することを決める。そして、研究者になり、研究所に勤務し、所長にのぼりつめている。
 一見すると、この映画は、「やりたいこと」がなかった彩葉が「やりたいこと」をみつける物語なのかもしれない。その結果、彩葉は「望ましい人間的主体」として極めて完璧に「成功」したように思える。「母」が望むように。
 しかし、それはそれほどに単純な結論だったのだろうか。「正しい人生」という柱に鎖に繋がれて、それに服従し、一体となったという結論なのだろうか。ネオリベラリズムの勝者として回収されたということなのだろうか。だとするならば、完全にそこから逸脱して、「エイリアン」になるほうが望ましいとこの文章は言いたいのだろうか。私たちは、「人間」たることから決して逃れられない。かぐやのような「エイリアン」になることはできないし、仮に人間を辞めたとして、それは排除されることに他ならない。規範に抗うことは極めて苦しく、痛みを伴う。それは嫌だからこの物語は「規範」に服従したのだろうか。いや、この結論を転回させるひとつの可能性が存在する。それは、「ハック」することである。

「規範」のハッキング

   客観的に彩葉は「成功」した生を生きている。しかし、彩葉自身の内部において、その目的は大きく異なる部分がある。彩葉は、「かぐやの義体を作成する」という、極めて自分と、自分の大切な人のための活動をしている。それはむしろ、その「普通ではない」ことをするために、この資本主義経済社会システムを「ハック」し、「掌握」していると言えるのではないか。すなわち、「敵」ですら活用して、自らの「普通ではない」生の肯定として利用しているのではないだろうか。
 実は、こうした可能性の先行例が作中内には用意されている。それは「クィアな居場所」としての「ツクヨミ」である。
alt text
 ツクヨミは、極めて色鮮やかで、そこには人の欲望が赤裸々に開かれ可視化され、様々な活動において、商取引や、感情すら経済に回収するような推し活関連の投げ銭が行き交う超‐資本主義の場である。しかし、ここで重要なのは彩葉の「私みたいな貧乏人でもいくらでも遊べる」という部分である。

それでも私がここで存分に遊べるのは、運営の提供する様々なワールドやゲームなどの体験施設、アバターを彩る多種多様なアイテムは基本的に全部無料で楽しめるからだ。基本無料を謳っているが実際は課金しなければついていけなくなる、みたいなことはここではない。3

 ツクヨミは超‐資本主義的に見えて(事実そのような面もあるだろう)、その内部において、非資本主義的な、回収され得ない可能性も用意されている。人はこの資本主義的で超現実的なツクヨミにおいて非現実的な生を生きることが可能となっているのである。それは資本主義のハックであり、掌握である。掌握することで、その規範のその内部において、「生産」的ではない、別の居場所を形作っているのである。その超現実世界は、超現実世界であるからこそ、「仮想」世界として、新たな可能性を、クィアな可能性を保持するのだ。
 このことから、彩葉の人生について、次のように読み解くことが可能となる。
 彩葉は、「完璧な人間」「正しい人生」という規範に服従するのではなく、それをハッキングし、掌握することで、その内部にまるでメンダコがふわふわと浮いているように、鎖の重力から解放されうる「聖域」を構築した。「東大」という、世界の「正解」である敵の武器を奪取し、掌握して、自分のやりたい「普通ではない」ことを可能にし、「自分だけの生」を防衛する。それは、資本と権力の機械じかけをハックすることであり、それを通じ、その内部で、それは「クィアな生」という可能性が開かれる。





クィアな生を生きる――かぐや、彩葉、ヤチヨの関係性

   かぐやは、ゲーミング電柱から生まれ、数日で高校生相当に身体が成長し、月人という「エイリアン」である。
 彩葉は、母の胎内から生まれ、規律・訓練されることで「主体化」されようとしている「人間」である。
 ヤチヨは、8000年の間傍観者として人の生を見送り続け、仮想空間でAI的な何かとして存在する「人外」である。
 彩葉は、かぐやの母であり、ヤチヨの大ファンであり、ヤチヨはかぐやであり、かぐやはヤチヨである。かぐやは彩葉なしには存在しえず、ヤチヨはかぐやなしには存在しえない。さらに現在の彩葉はヤチヨとかぐやの存在なしでは存在しえない。彩葉とは人間的な再生産の鎖の途上であると同時に、そこにしかありえない生そのものである。この3者はわかちがたく不可分であり、映画の最後を見ればわかるように、それぞれが存在として独立しつつ、その存在は互いの存在に依存している、つまりもつれている。その内部では、人間的な言葉を借りるならばそこには「愛」があると言えるかもしれない。しかし、それは母と娘の愛とも、恋人同士の愛とも言い切ることのできない曖昧な関係性である。家父長的な再生産の家族愛でも、ロマンティック・ラヴ・イデオロギー的な愛でもないその関係性は、そこにしかない「クィアな生」そのものであると言えるのではないだろうか。


 『超かぐや姫!』は、ハッキングである。それは、決して逃れられない「規範」について、その規範をハックし、それそのものを掌握し、そしてその内部で自らのかけがえのない「クィアな生」を生きる、したたかな生存戦略なのだ。
 

















































殴り書き

 …………とまぁ書いてみたんだけど、こっからは個人的な話をするね
 いやまぁ弊のFediverse見てる人はわかると思うんだけど、弊って既存の権力をどうにかハックして2次元美少女になろうとしているし、そもそも2次元美少女になろうというのが、夢で出会った意中の2次元美少女にもう1度再会するためだしみたいなのがあり……
 なのでこの感想ってだいぶ弊の願望が入ってる気がしなくもない気もするんだよな クィアな映画なのは間違いないんだけど、本当に彩葉がネオリベラリズムに回収されてないと言い切れるのか?とかかぐやの稼いだ金もそれはそれで新たな搾取では?とか、色々。
 でもなぁ、いい映画だと思うし、彩葉とかぐやとヤチヨという、この複雑な存在をただSF的なやつとかで処理するんじゃなくて、クィアな読み解きが十分に可能だし、ていうか感想文って正解を見つけ出す営みなんかじゃなくて、映画と私の間にどのような可能性が立ち現れたかを記述する営みだと思ってるからこういう感じになったって感じかなぁ。
 ちなみにチョカグヤ見た後に、参考文献として、ハルバースタム『クィアな時間と場所で』や、プレシアド『あなたがたに話す私はモンスター』とか、ハラウェイ『猿と女とサイボーグ』クーボニクス『ゼノフェミニズム』4とか読みたいなと思ってたんだけど、全然読めそうにないし、書かないブログより書くブログ!理論でとりあえず書いてみたみたいなところがあります。なので学部1年生みたいなのになってるのは許してください泣
 弊って彩葉なんかなぁ 意中の2次元美少女にまた会うために生きてるし いやヤチヨかもしれない ずっと意中の2次元美少女のこと待っているし それはそうと弊はもうどこからどこまでが意中の2次元美少女なのかとか、何にもわかんなくなってきた
 おかしいよな 自分のことを「2次元美少女」と自称して、しかもその理由が「自分は元々2次元美少女で、意中の2次元美少女ととある場所で幸せに生きてたけど、転生してしまった」みたいなナラティブを構築して、で一緒に転生した夢でしか会えない意中の2次元美少女にもう一度会うための方法として自分が2次元美少女の姿を取り戻せば(同じ次元だから)意中の2次元美少女ともまた会えるかもしれないみたいなこと考えてるの だからこそ自分のこの噓みたいな馬鹿みたいなどうしようもない生をどうにか肯定できないか、規範に抗って人間を完全に捨てるのは、苦しく、苦しく、痛く、痛いから、何とか抗いながらもその内部で攪乱する可能性を探ってサンクチュアリを築こうとしているのはまぁおかしいなぁと思いながらもでもおかしいという価値判断事態を疑っているのと弊にとってはこれが生の目的だから
 何が言いたいのかって?弊も意中の2次元美少女にもう一度会いたいです。
 














本ブログ内で引用した画像の著作権はすべて次に帰属する:映画『超かぐや姫』 コロリド・ツインエンジンパートナーズ。


  1. 桐山なると『超かぐや姫!』 Kindle版、東京:株式会社KADOKAWA、2026年、182頁。 ↩︎

  2. 藤高和輝『バトラー入門』 Kindle版、東京:筑摩書房、2024年、183頁。 ↩︎

  3. 桐山なると『超かぐや姫!』 Kindle版、東京:株式会社KADOKAWA、2026年、72頁。 ↩︎

  4. 『ゼノフェミニズム』については、現代思想2018年1月号に翻訳がある、一応読んだけど十分に咀嚼はできてない。 ↩︎